編集・発行人 安東 博 Address 〒719-35 岡山県阿哲郡大佐町田治部3245 Tel & Fax 0867-98-3470 E-Mail address h-andoh@mx1.tiki.ne.jp


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思うがままに



出会いが私を育ててくれる


自分でしたい



 自分一人だけの詩集を出そうかと、冗談半分で友達といっていました。詩を書き 出したころ、タイプライターをしていました。汗をびっしょりかいて、打てるとい うことだけで、とても嬉しかったのです。人に頼まなければ、宿題も、ペンフレン ドへの手紙も、何も出来ませんでした。頼んで書いてもらっていると、恥ずかしく て書けないことがあったり、答えがあっているか心配で、時間ばかり過ぎたことも ありました。

 中学の時、国語の先生に、「自分で書いた文と介助してもらった文では、感じが ちがう」と言われました。言われてはじめて、自分自身も気がつきました。
 タイプで毎日のように詩を書き、ペンフレンドに便りを書くことで、一日一日が、 あっというまに過ぎていました。そのころからの詩が200作ほどになり、冗談で 言っていた詩集を、27歳の時、鳥取の病院におられる人生の大先輩Kさんと合同 詩集をだすことが出来ました。タイトルは「風によせて 花によせて」です。この Kさんについては、後半で詳しく書きます。

 ファーストラヴもこのころです。小1の時からの同級生で、僕よりもずっとハン ディは軽かったのです。中2の夏休み、彼女が足の手術で隣の部屋に入ったとき、 毎日のように車椅子を押してもらって隣の部屋へ。まだ電動車椅子もなく、介助が なければどこへもいけなかったのです。たとえそれが施設の中でも。
 彼女には、打ち明けずに片思いでいいと思っていたのに、話をしているうちに、 話題が"初恋"になりました。女の子ばかりの部屋にいて、しかも知ったものばか りで、こういう話題。ひとりずつ意中の人を言って、僕に番がまわってきて、最初 はとぼけていましたが、みんなから問い詰められてとうとう白状させられました。 緊張がくるし、胸はドキドキ。自分の部屋に帰りたくても時間が来ないと迎えの職 員はこないし、その時ほど自分で動けたら、と思ったことはなかったです。
 彼女の反応? それは、皆さんが自由に想像してください。まぁ、よくあるパター ンです。

電動車椅子との出会い

 中3の終わりに左足の骨を折ってしまいました。どうして折ったかというと、凧 上げ大会の日に、リクライニングの車椅子に乗せてもらって渡り廊下から見物して いたのですが、急に強い風が吹いてきて、ブレーキを止めていなかったので車椅子 が動きだして、柵と車椅子の間に足を挟んでしまったのです。ちょうど土曜の午後 だったのでレントゲンなど診察は月曜まで我慢しなければならず、本当にいたかっ たです。
 この骨折が治るころ、卒業式の予行から帰ってくると、エレベーターの前に寄贈 されたばかりの真新しい電動車椅子が並んでいて、「これが電動車椅子か! 運転 できたらいいのになあ」と思いながらエレベーターに乗りました。この頃は、人に 押してもらっていたので誰かがいなければどこへもいけない状態でした。この時は、 自分には運転できないだろう、と思っていて、どこかよその事のように考えていま した。それが乗るようになったのは、卒業式も終わって病棟に3台の電動車椅子が 置かれて、指導員の方から「工夫したら乗れるかも知れないからやってみよう」と 言われて挑戦することにしました。
 毎日午後から2時間ほど電動車椅子に乗り、どうすれば自分で運転できるかを指 導員の方と考え、同じ病棟の人が、椅子に手を固定している様子を見て、これだと 思い、指導員の方に相談して今のようになりました。一番始めに練習したのは、真っ すぐ走ること。床に貼ってある白線にそって走り、それがうまくなると直角にまがっ てまた直線を走ることを繰り返しました。もちろん、決められた位置で止ることも やりました。このころの感想は「自分で走れるって、こんなにも素晴らしいことか」 ということでした。
 このころは、自由になれたということでとても危ない運転をしていました。今考 えると、とても怖いです。今でも、運転が荒いと注意を受けて、反省しています。 でも、あの頃は、反省などもせずに、ただ走るのが楽しくて、といった感じでした。 転倒して半年ほど禁止されたことが2度もあります。この時ほど、自由に走ること のできる素晴らしさを感じたことはありません。
 車椅子から降りると、寝ころんだ生活なので、世界がちがって見えたことをよく 覚えています。
 目の位置が高くなると、毎日生活している部屋までがいつもと違って見えました。 棚の上に置いてある縫いぐるみ、花瓶の花、窓から見える景色等々。どれをとって も、見る角度が変わると、全く別のものになって見えるのです。今これを読んでい るところが、もし、寝ころべるところなら、横になって周りを見てください。窓の 景色はどうですか? テレビはどうですか? 違うでしょう!
 そのうえ、自分の思い通りに移動が出来て、隣の病棟の友達にあいに行ったり、 職員に内緒で近くの林業試験場まで散歩に行ったりしていました。
 また、こう言うこともしました。それは、日曜日に施設の入り口の木陰で3人ほ どで、独身女子寮から出てきてデートに向かう職員を見ていると、数分のうちに彼 氏の車が迎えに来るのです。それの車種などを覚えて、翌日に職員に問うのです。 こんな風に「昨日の10時過ぎに、白のスカイラインのハードトップでどこへ行っ てたの?」と。2/3は驚きながら、顔を真っ赤に染めて「あれは弟よ!」と、抗議 します。それがたまらなく面白くて、毎週のように出ていました。何ですか? あ との1/3はどうかって。それは勿論、すぐに彼氏と教えてくれ、そのあとは、のろ け話を聞かされて悔しい思いをしました。
 施設では、自治会、学校では生徒会の役員をやっていました。役員といっても、 言語障害のある人の通訳とか、補佐的なことが多かったです。父譲りの性格か、人 の世話をすることが好きです。父は、すぐに役を引受ては、母に「いい加減にして!  家のことして」と言われていました。障害を負っていても、出来ることがさがせ ばあるようにすこし感じはじめたのもこのころです。

普通の関係がしたい

 文通は、そのころも続けていました。施設にいると、友達はかわることなく同じ 部屋にいて、10年以上も顔を突き合わせていると相手が何を考えているのかさえ もわかってしまうのです。言い換えれば、変化がなくマンネリ化して、刺激を求め 始めました。中1からはじめて、今でも続いている人が一人います。
 そのころは、全国4箇所とやりとりをしていました。南から鹿児島、大阪、三重、 そして北海道の根室。春の桜前線が北上する様子が手紙を通して感じ、日本の長さ を実感しました。
 もう一つ文通をはじめた理由があります。それは、「健常者と付き合いたい」で した。
 今でもたくさんの人と手紙をやり取りをしています。今年で20年という、長い 方もいます。健常者、障害者、年上、年下、いろんな方と交流しています。
 でも、あのころは中学生で、食い気、色気、ともに旺盛になるころで、「施設の 外の女の子と付き合いたい」が、今思うと本音のように感じます。
 そのころは、郵便料金が安かったせいもあって、1週間に2往復もしていました。
 文通しているほとんどの人と会ったことがありません。でも、1度根室から会い に来てくれたペンフレンドがいて、舞い上がったことをこの季節になると思い出し ます。
 その時のことを少し書きます。ちょうど高校3年の2月21日の午前中に4時間 だけだけど、逢いに行くから、と1週間前に便りがありました。同級生、病棟の仲 間、職員にはほとんど言ってなかったので、その日も普通に登校しました。3年生 ですから、単位もとれていたのですが、学校とも後わずかと思うとつい行ってしま いました。その日の授業が始まる前に担任の先生へわけを話して、2校時から5校 時までぬける旨を言うと、先生は「Cクラス全員の前で紹介するのなら、許可する」 と、言うのです。すごく恥ずかしかったけれど、そうしました。
 物心付いたときには、障害と付き合っていたけれど、普通の女の子と普通に話す のははじめてでした。ボランティアでも職員でもない、普通の関係がしたかったの です。この時のことを詩に書き留めたものが"水曜日のメモリー"などです。この 詩も、合同詩集に載せました。
 今でも感じていることは、障害者が誰かを好きになっても、それがボランティア とか施設の職員だと、それ以上の関係になれないことが多いのです。「私は、そん なことはない!」と思っている方もおられるでしょうが、実際にその立場になると 難しいようです。まあ、近くに障害を持った方がいたら、尋ねてみてください。み んなが苦い経験を、一つは心の奥にしまっていると思います。何ですか、僕? そ れは、ヒ・ミ・ツ。

新しい出会い

 高校を卒業して、1カ月ほど行く先が決まらずに、毎日イライラしながら過ごし ていました。それまでいた施設は、18歳までの児童福祉施設でした。同じところ に今入っているところのような施設がありましたが、当時は、その県に住んでる人 が優先で、入ることができないようになって鳥取に帰りました。結果的には、この 方が僕自身の偏見などをなおすことが出来て良かったと思っています。でも、その 頃は、自分よりも重度の人をほとんど知らず、いきなり今までと違った世界に入っ てすごくショックを受けました。そこが昨年9月までいた病院です。心身ともに慣 れるまでに3年かかりました。最初の施設と比べてしまい、早く違ったところへか わりたい、と思ってしまいました。

自分の身体を知って

 そのような考えをかえてくれたのは、ある指導員の方でした。それまでの考えが 間違ってたことに気づくことが出来ました。
 その方にまず勧められたのは、この病気「脳性小児麻痺」のことを知り、自分で 身体のコントロールをうまくできるようにと、難しい専門書を借りて読みました。 わからないところがたくさん出てくるので、その度に訓練の先生などに尋ねていま した。
 専門書を2冊読みました。読んでわかったことは、日頃何気なく行なっている動 作に、説明がつくのです。難しいのでここへは書きませんが、驚くことばかりでし た。それと、もう一つ驚いたことがあります。この病気で普通にしゃべることがで きるということです。それまでは知らなかったのですが、僕のように重度で話すこ とが出来るものは滅多にいない、というこでした。天然記念物みたいなものですよ!  驚いてばかりでなく、どのようにすれば身体に勝手に入っている力をぬくことが できるか、ということがわかりました。自分の身体のことを知って、人間ってすご いものだと思いました。
 皆さんが何気なくしている動作も、よく考えてみればすごいことなんですよ。そ の証拠に、産業用ロボットに生卵をつかまそうと思うと、大変なことのようですよ。

お父さん代わり

 これを読みだした同じころ、病棟にいた女の子に本を読んだり、話をしたり、音 楽を一緒に聴いたりし始めました。女の子といっても彼女ではなく、お父さんの代 わりみたいな感じです。毎日夕食が終わってからの1時間、本を読んであげること が恒例の日課になりました。自分の気持ちを喋ることで伝えることの出来ない彼女 は、誰かが自分の相手をしてくれることを、待ち望んでいたようでした。「若草物 語」「ギリシャ神話」「鳥取の昔話」「クオレ物語」「やじきた道中」。今思い付 くだけでこれだけあります。他にもたくさん読みました。中には面白すぎてこちら が吹き出してしまい次へ進めなくなったり、悲しくなってしまったこともあります。  別に特別なことをしていたわけではなく、父がしてくれたことと同じことをして いるだけ、と今でも思っています。その子の笑顔を見ると、もっと頑張らなければ と思う毎日でした。
 彼女との関係ができあがって、毎日本を読みだして2年ほど過ぎたときに、他の 病棟から男の子がかわってくるので同じようにしてくれというような感じで、指導 員の方に言われて、嬉しいような気持ちと、これは大変なことになったと言う気持 ちで、頭の中は、からみあった毛糸玉のように混乱しました。勿論、これらのこと は、指導員の方に指導を受けながら行っていましたが、こんな形になるとは、思っ てもみませんでした。
 その男の子も、女の子と同様に自分の口で話すことは出来ないのです。自分の中 に言葉を持っていても話すことが出来ないと、周りの者は、自分より下に見てしま うことが多いのです。僕自身も以前はそういった態度が多かったと思います。今で も時々そういった自分に気づいて反省している毎日です。  みんなが、心の言葉を胸の中にたくさんしまい込んでいる、だけのように感じて います。

 彼らに本を読んだり、歌をうたっているうちに、自分の声がはっきりし、しかも 一息で話せるのが長くなっていることに気づきました。最近、高校時代の友人など から電話があって、昔よりも声が聞き取りやすくなっている、と言われて自分だけ が思っていたのではないことを、改めて感じました。他人に何かをすると、必ず自 分にも返ってくるというが、これもそうだと思います。
 首の調子がこのころから少しおかしくなり、ときどき動くことも出来ないことが ありました。僕の場合、首を使って体全体をコントロールしているので、首が痛く て動かせなくなると、何もできません。首の向きをかえると、手足が伸びたり曲がっ たりするのです。それを使って寝返りを打ったりしています。僕にとっては首が、 すべてをコントロールしている大事なところです。首から上は、自分の思うとおり にだいたい動かすことが出来ます。だから、知っているでしょうが、これも頭で打っ ています。20年近くもこうして打っていると、首の骨が変形してきて長時間打つ ことが出来なくなりました。
 先程の彼らは僕の半分ほどの年齢で、いつもこちらが忘れかけていたいろんなこ とを思い出させてくれました。素直な心、愛する気持ち、大きくなるにつれてどこ かへ置き忘れてしまったことをたくさんのことを、もう一度取り戻したような気持 ちにしてくれました。

 男の子は中学の3年間。女の子は5年生から高校2年の夏までの7年間。どちら もがその、長いようで短い間に大きく変わって行きました。今考えてみると、人が 大きくなっていくときの、一番感じやすい年頃に接していたのだと思うと、あれで 良かったのだろうか、と思う半面、父が自分にしてくれていた事をしただけ、とい う思いもあります。

Kさんに出会えて

 最後に、どうしても書いておかなければならない人がいます。それは、Kさんで す。
 僕がいた病院に、とても素敵な女性がいました。最初に少し書いた合同詩集を一 緒にだした方で、今も鳥取で元気にされています。トーキングエイドという声の出 る機械を使ってしゃべったり、手紙を書いたり、昔あったことを手記のようにまと められたりされています。この女性Kさんは、寝たきりで、自由に動かすことので きるのは左足だけで、話すことも出来ません。でも、その機械を使いだしてからは、 僕らの知らない、戦前、戦中、戦後の苦しく大変だったときの事など、いろいろな 思い出を語ってくれました。平仮名を五十数歳で覚えられ、トーキングエイドを六 十歳前でマスターされました。
 Kさんは寝ころんだ姿勢が普通ですから、左足を使ってトーキングエイドを使う と、画面を見ることができません。でも、トーキングエイドはキーを押さえると、 そのキーに書いてある文字をしゃべるので、足指でキーを探りながら操作をされて います。僕くなどが頭で打つよりもずっと大変そうに見えましたが、慣れてこられ ると、すごくはやく打たれていました。Kさんが自分の中にもっていた言葉、思い が一気にせきを切って出てきたのです。両親のこと、姉弟のこと等々と、つぎつぎ と語ってくれるのです。障害を苦に自殺まで考えたこともあるそうです。
 そのような事をきいていると、「もっと頑張らなければ」と思わずにはいられな い気持ちになりました。

 Kさんからは、いろいろな事を学びました。障害をもって生きることの難しさ、 生きていく素晴らしさ、障害を障害と思わず、個性と思う心。これらのことは、僕 の中で大きなウエイトを占めています。Kさんは、辛いことを多くは語りませんが、 書かれている文章の裏には、たくさんの思いが詰まっているように感じ取れます。
 自分よりも重度の人を知らないときならばきっと、Kさんを馬鹿にしていたこと と思います。前述の二人とKさん、そのほかにも僕自身を変えてくれた多くの人達。 言葉が出せなくても、目が見えなくても、どんな状況であっても、自分は自分であ り続けることの素晴らしさを学びました。これからもずっと、僕の中でこれらのこ とは心の糧になって支えていってくれるでしょう。そして、これから出会う人から も多くのこと学びながら、生きて行きます。

 

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